みんからきりまで

きりみんです。

遺書だったもの

死のうとしていましたが踏みとどまりました。以下の文章は死ぬ直前に投稿しようと思っていたエントリから生きたまま公開するのがはばかられる箇所を一部修正したものだ。錯乱状態で書いたので全くまとまりはない。
一ヶ月くらい本気で死のうと考えていて、色々準備してあとは実行するだけという状態で何日もグズグズしていた。ネット上にある自殺して失敗した人や自殺遺族の人の文章を読み漁ったりしていた。
結局、考えれば考えるほど死んで意識が無になるという恐怖に打ち勝つことが出来なかった。あと一番身近にいる人がショックで狂ってしまうのが辛いなと思った。
一旦は落ち着いたが、今後どうするかは未定。

------------------------以下遺書だったもの----------------------

この文章をみなさんが読んでいる頃は私はもうこの世にはいないだろう。
これはそういう文章だ。

内容は私が死ぬという報告と、私の人生の振り返りだ。
なぜ死ぬ人間がわざわざネットに自分の人生を曝け出すのかというと、単純に「こんな人間が存在していたんだ」ということを知ってほしいと思うからだ。
私は死後の世界を信じていないし死んだら意識は消滅して無になると思っているので、この文章への反響を知ることはおそらくないし意味がないといえば意味がないのだが、まあ死ぬ前に最後にしたいと思うことがこれなのだ。
基本的にスマホで書いているため読みにくいのは申し訳ない。

幼少期のことはあんまり憶えていない。幼稚園くらいまでの私はとにかく元気で明るくて誰とでも仲良くなるような子だったらしい。まあ、大抵の幼児はそんなものな気はする。あと、テレビゲームが異常なほど好きだった。

小学生に入ってからも最初は元気いっぱいだったし、サッカークラブにも入り誰よりも熱心だった気がする。ただ、授業内容にはあんまり興味がなく、授業中はいつも教科書の隅に蟻の行列のようならくがきをしたりして遊んでいた記憶がある。子供扱いされるのがとにかく嫌いだった。大人の会話に混ざるのが好きだった。いつも髪を伸ばしていたが、女の子に間違えられるのを嫌がったし、女児向けのアニメに興味があるのにそれを知られるのが恥ずかしくて我慢するような面倒くさい一面もあった。

友達もそれなりに多かった気がするが、一方で自分の予定や期待していたことが思い通りにならないとパニックになってしまうところがあり、家族で出掛ける時などに些細なことで癇癪を起こしてよく旅行などを台無しにしてしまった。

小学生3年生に上がる頃、急に学校に行くのが嫌になった。きっかけは憶えていない。特にいじめられていたりしたわけではないが、田舎の学校のモラハラパワハラ上等な教師や、理不尽なルール、気性の荒い同級生、興味のない授業などに疲れてしまったのかもしれない。とにかくスイッチが切れたように意地でも学校に行かなくなった。

最初は親も無理矢理にでも学校に行かせようと引きずって行ったり、それが無理だと分かると今度は無理矢理カウンセリングに連れて行こうとしたりして修羅場の日々だったが、しばらくすると諦めたようだった。最終的に自治体が運営してるフリースクールのような施設に連れて行かれ、そこに通うことになった。

フリースクールには地域の不登校の子供たちが集まっていて、特に勉強を強制されるわけでもなく、トランプをしたりゲートボールをしたりテレビゲームをしたりまあ要するにほとんど遊んで過ごしていた。不登校になる子供は小学生よりも中学生の方が多いので、最初に通い始めた頃はお兄さんお姉さんばかりだった。しかし私にはこの環境が心地よく、年少者として可愛がられていた。

一度フリースクール通いや家で1日中ゲームをする生活に慣れてしまうと、それが楽すぎて学校に通うという生活には戻れなくなってしまった。年度の始めなど折々に「これからは学校に行く!」と意気込んで登校しても、数日から数週間もすると窮屈な学校生活や些細なトラブルが耐えられずにまた学校に行かなくなった。悪く言えば、学校に行かないという選択肢を知ってしまった時点で行くことに対してストレスを上回るメリットを見出だせなくなったし、嫌なことと向き合うのではなく投げ出すという逃避癖が付いてしまっていた。

学校に行かない生活はそれなりに楽しかったが、一方で家庭内でのカーストは最底辺だった。元々末っ子だった上に学校に行っていないということで家族の悩みの種、汚点、義務を果たしていないものという目で見られ、自分としても常に社会に対して後ろめたいという気持ちがあり、この頃から常にやんわりと死にたい、どこか別の世界へ行きたいという気持ちがあった。上の兄弟や父親にとってはとにかく迷惑な存在だったのだろうとは想像できるが、その分強く当たられ人格が歪んでしまったような気もする。

フリースクールでは中学生だった友達がどんどん卒業しては入れ替わり、最年少だけど最古参の変な立場になっていた。年によってはあまり通う子供がいなかったりもしたので、フリースクールに毎日通っていた年とあまり行かずに家に籠もってる年があった。自分も中学生になると、年の近い友達が多くでき、その頃に出来た友達とはかなり親密な関係になった。

結局私は小学生3年生から中学生3年生まで6年間不登校だった。中学を卒業すると、友達の真似をして通信制高校に入学した。不登校児は定時制高校に進学することが多かったが、私には治安の悪そうな定時制高校よりも新しそうな通信制高校の方が向いていそうな気がしたのだった。

入学前の面談で「友達を作りたいです!」と言い意気込んで入学したものの、その通信制高校では一応校舎はあるものの、決まったクラスや登校日などは無く、基本的に自宅で宿題のプリントをやり年に数時間の最低限の登校時間をクリアすればいいというシステムだったので、登校しても教室はガラガラでいつも顔を合わせる人がいるわけでもなかったので、友達が出来ることはなかった。ほとんどニート状態の生活で1年分の単位はなんとか取ったが、2年目にはプリントをやるのも嫌になり中退してしまった。

この頃からようやくインターネットをまともに出来る環境が整い、導かれるようにしてハマったのが2chVIP板だった。VIP板とは当時(2007年頃)2chで一番勢いのある雑談板で、更新する度にリアルタイムで様々なスレッドが立てられほとんどチャット状態だった。ここで私はネタスレを立てたりレスバしたり趣味について語り合ったり様々な活動をしていたが、拠点としていたのはとある常設スレだった。そのスレの実態は当時VIP最大手の馴れ合いスレだった。私はこのスレに常駐し、コテハンとして馴れ合いをしていた。このスレで仲良くなった人とオフ会をしたこともあったし、一緒にネトゲをやったりもしていた。

ところで、この時期に私は自分がxxxxxx(異常性癖)であることを自覚した。この情報だけで、私の人生に共感出来るという人は激減するだろうし、「死んでくれてよかった」と思う人も多くいるだろう。だからこの事は墓まで持っていった方がいいのだろうけど、だからこそ書いておきたかった。私がこの現代社会で生きづらく死を選んだ理由の一つなのだから。言っておくが性犯罪を犯したことはない。

さて、3年くらいはVIPに入り浸っていたが、スレで仲良くなった人に誘われてTwitterを始めることになった。この頃のTwitterはまだUIの日本語化すらされていない時期で、使っている日本のユーザー層はほとんどがプログラマーなどのギークやネットが大好きな文化系の大学生や高校生などだった。

最初はよく楽しみ方が分からなかったが、VIPのコテ雑と同じようなノリでいいんだと分かったら一気に面白くなった。とにかく投稿頻度の高い日本人ユーザーをどんどんフォローしていき、好きなアニメの話や普段考えていること、それに今のSNSでは到底許されないような過激な下ネタなどを投稿しているとどんどんフォロワーが増えていった。次第にいかに面白いことを言ってふぁぼを稼ぐかにのめり込んでいった。

次第にTwitter上で仲の良い人も増えていき、オフ会に参加したり通話をしたりするようになっていった。人に会うようになったことでそれまで全く関心がなかったおしゃれにも目覚め、縮毛矯正をかけたり原宿に服を買いに行ったりもした。それだけじゃ満足できず、女装にハマったりもした。思春期の悪いオタクのノリに感化されたというのもあったが、単純に女の子の服は魅力的だったし、自分が男性であるということが嫌で、そもそも性別というものを煩わしく感じており中性的になりたいという気持ちもあった。

気がつけば18歳になっていた。VIPにいた時は周りは自称ニートばっかりで、それがアイデンティティのようなところがあったし、普通なんだと思っていた。ところがTwitterで仲良くなった人たちはみんなプログラマーだったり頭の良い大学生や高校生だったりして、急に強烈な劣等感を覚え始めた。自分が何もしていないし何も出来ない間に世間の人はコツコツと勉強して専門分野に進んだり将来を描いていることがショックだった。私は急激にメンヘラ化していった。この頃はわりと真面目に死ぬことを考えたりもしていた。

まだ若かったこともあり、メンヘラ化しても周囲の人は優しかった。いろんな人に励まされ、意を決してバイトの面接に申し込んだが、当時の私は絵に描いたようなキモオタの喋り方しか出来ず、すべて落とされた。恥ずかしさとショックで衝動的に自転車を走らせた。過去にも何度か自転車で片道60kmくらいある東京に行って泊まったり、片道50kmくらいある海を見に行って帰ってきたりしていたのでそのノリだったのだが、深夜に国道を走っているところを補導され警察署で一晩明かして翌朝親の車で家に帰された。車の中でラジオから「愛、覚えていますか」が流れていて、今は人生のどん底だと思ったのを憶えている。

大いに反省した私は誰でも受かりそうな工場ラインの派遣バイトに応募し、工場で働き始めた。仕事をするのは怖かったが、やってみれば自分はまだ要領よく仕事が出来る方だということが分かった。若者は一日で辞めることも多いキツい仕事だったが3ヶ月くらい続けた。でもやっぱり椅子に座って出来る仕事がしたいと強く思った。少し自信のついた私は高校卒業程度認定試験を受け、高卒の資格を手に入れた。そしてどうしても東京の専門学校に通いたいと親に頼み込み、奨学金を借りて情報系の専門学校に通うことになった。

専門学校ではプログラミングとシステム開発の学科を選んだ。Twitterで知り合ったプログラマーの人たちみたいになりたいと思った。家から学校までは、まず駅まで自転車で50分、そこから電車で1時間半くらいかけて通うという地獄の通学環境だったが、不思議なくらいやる気があったので通い続けることが出来た。

最初の半年で基本情報技術者試験の内容を詰め込み合格を目指すというのがカリキュラムだった。クラスメイトは半分が社会人経験者や大学中退者など、もう半分が高卒からのストレート入学という感じで、基本的に前者が真面目で成績もよかった。私は中の上くらいの成績だった。やる気はあったが、大学経験者や地頭が良い人には全然敵わないという感じだ。私は勉強やテストというものに慣れておらず、緊張で頭が真っ白になり試験で0点を取ったこともあったが、基本情報に合格出来たため、特進クラスに入ることが出来た。

専門学校では友達も出来て楽しい日々だったが、2年制のため、あっという間に就活が始まった。就活では学歴が低いこと、情報処理技術者試験の知識はあるもののあまり実務的なプログラミングの知識は身についていないことに加え、SIer系ではなくWeb系の仕事がしたかったこと、更に性格的に手当たり次第受けるということが出来ず基本的に一社ずつ応募していたこともあり、かなり難航した。最終的には2年目の冬に小さなソフトウェア開発会社のスマホアプリを開発する新規部署というところから内定を貰った。手取りは15万だった。

就職が決まるとようやく都内に引っ越すことが出来た。新卒で入った会社の部署はいかにも零細企業という雰囲気だったが、Android開発の入門書を一冊読まされて、いきなり受託のアプリを一人で作らされた。当時はスマホが普及したばかりで受託で降ってくる案件も個人開発レベルのものが多く、また品質の要求も雑だったため何とかなっていた。同期の中では一番まともにプログラミングが出来たので評価は良かったと思うが、治安が悪い職場だったので真面目くんという扱いを受けていた。

しばらくは順調にいくつかのアプリを開発していたが、順調なのが災いして受託元の会社にSESで出されることになってしまった。この出向先が辛かったのと、めちゃくちゃ仕事して応用情報などの資格も取ったのに給料がほとんど上がらなかったことが不満で1年で退職してしまった。

この頃、フリースクール時代からの友達で、ずっと定期的に二人で遊びに行く仲だった女性に告白し付き合うことになった。

さて、次に入った会社は零細のゲーム会社だった。ここでも受託開発だった。一見すると雰囲気の良い職場だったが、社員のほとんどが創業メンバーの取締役で、みんな好き勝手にやっているという感じで研修やサポートなどは全くなかったし何よりも稼働が異常に多く毎日終電に近かった。そのことに対して取締役は誰も課題を感じておらずむしろ楽しんでいるようだった。ある日、私は休みを貰う予定だった日を忙しいという理由で出勤に切り替えた。前日も終電だった。私は遅刻をしてしまったのだが、そのことで営業や事務を担当してる男性に呼び出されて説教をされた。私はこれにとてもショックを受け、耐えられなかった。その日、私は失踪した。

財布だけを持って知らない電車に乗っていた。夜になるまでフラフラし、カラオケで寝泊まりした。人生終わったと思った。このままどこかでホームレスなり日雇いなりして生きていこうと考えたが、そんな根性はなかった。何日か経って、このまま日々を過ごしても所持金が底を尽きたらどうせ終わりだと思い諦めて実家に帰った。

会社を辞め、しばらく実家でぼーっとしていた。彼女には失踪前に連絡しなかったため、付き合い始めた直後だったがそのまま音信不通となった。このことは人生で一番後悔している。一番大切にするべきだった人間関係を自分で失い相手を傷つけてしまった。

少し気持ちが落ち着いてきて、どんなに自分が社会に迷惑な人間だとしても生きていくには働かなければならないと思った。もう正社員は懲り懲りだからとりあえずバイトでもしようと思ったが、プログラマーのバイトというのは意外とあまり見つからなかった。その時、フリーランスになって仕事をするとバイトと同じような事をしてより多くの報酬が貰えることに気がついた。どうせならフリーランスになってみようと安易に考え開業した。エージェントに登録して面談をしたら「どうせすぐには決まらないのでどんどん受けてみましょう」と言われ、最初に連れて行かれたのが色々なサービスを展開している大手A社だった。緊張でガチガチだったが、なぜかA社の面談は通って勤務することになった。

A社のスマホアプリ開発部署はたくさんのアプリのチームが同じフロアに集まっており、たくさんのフリーランスやSESなど外部の人間が働いていた。その中の一つのアプリのチームに配属され、初めてチーム開発というものを経験した。最初、チームの雰囲気はギスギスしていたが、しばらくして入ってきた正社員のリーダーがとても面白い人で、バリバリのキャリアウーマンという感じでパワフルで気さくで何でも話してくれるような人だった。その人に影響されるようにチームの雰囲気も改善していき、また私も仕事に慣れてくるとリーダーから頼りにされるようになり、自信がつくことで更にモチベーションが上がっていった。かなり人数の多いチームだったが、毎日のようにチームでランチをしたり、事あるごとに飲み行ったりして本当に楽しかった。チームで仲良くなった何人かとはプライベートで遊ぶほどになった。部署の全体会議で積極的に発言をしたり導入されたばかりのQiita Teamで色々書いたりしていたら、社員のとても優秀な人に目をつけられ仲良くなり、勉強会に連れて行かれたり無茶ぶりでLTをさせられたりした。それまで勉強会とか別の世界の話だと思っていたのを、その人が引っ張り上げてくれたのだ。

今思い返しても、このA社にいた頃が自分にとって一番の青春だった。本当に楽しかった。しばらくして、仕事上で知り合って仲良くなった女性と付き合うことになった。彼女は美人で賢く感情豊かで素敵な人だったし、一緒にいて楽しかったが、結局は別れてしまった。仕事ぶりを見られて仲良くなったこともあり、私がちゃんとした人間であってほしいという期待がしんどかった。お互いに若かったこともあり、他人と一緒に居続けるということに疲れてしまった。

何年かして、長期休暇が欲しくなったというのもありA社を離任した。その後しばらくは細々とあまり面白くない仕事をしていたが、またエージェント経由で案件を探し、B社の仕事を始めた。B社はプロダクトをリリースした直後のスタートアップで、リファクタリングやリアーキテクチャを担当した後、積極的にプロダクト開発に関わっていった。このプロダクトというのは決済系のアプリだったが、とても面白く将来性のあるものだと感じてのめり込んでいった。

この頃に初めて精神科を受診した。理由としては、物心ついた頃からずっとある心配性、メールや郵便物などを開けるのが怖い、先延ばし癖、他人の目を過剰に気にし勝手に嫌われているのではないかと考えてしまう、他人から否定されることを過剰に恐れるなどの症状だ。この時ははっきりとした診断は出されなかったが、不安障害に効くと言われている薬を処方された。その後はずっと精神科に通い続ける人生となる。

B社の社内には個人間決済や中国のIT事情に詳しい面白い人がいて、その人に誘われて中国旅行にも行った。今でこそいろんな意味で難しい状態になった中国だが、この頃はまだ政治的にも経済的にも安定していて勢いがあったのだ。B社から社員にならないかと打診されて業務委託から正社員になった。

コツコツと独学で勉強していた英語の腕試しでTOEICを受験し650点を取ったのもこの頃だ。
また、DroidKaigiというカンファレンスで登壇したり、Kotlinのカンファレンスに参加するためにサンフランシスコに単身渡航したりした。この頃は自己肯定感と仕事へのモチベーションがピークの頃で、謎の万能感があった。

しかし、熱意も虚しく様々な要因によりプロダクトはサービスを終了することになった。元々プロダクトに惹かれて入った会社だったので、その少しあとでB社を退職した。

直後に競合だったプロダクトをやってる会社に勧誘されて転職したが、なかなか馴染めないうちに心身の体調を崩してしまい、数ヶ月で退職することになった。精神科では抗うつ薬が増やされた。

療養をしながら次の仕事に困っていると、メガベンチャーにいる知り合いから声をかけられ、開発中のアプリの開発に業務委託で参加しないかと誘って貰った。体調に不安があったが週3からでもいいと言われたので働くことにした。

この職場、C社での仕事も楽しかった。リリース前のアプリの開発ということでやることは単純だったし、チームには勉強会などで名前を知ってるエンジニアが多くいて人間関係などもそれなりによく、英語で会議をしたりと刺激的だった。単純な性格なので都心の高層ビルで働き有名なプロダクトに関わるというだけでもわりとテンションが上がるのであった。ただ、アプリの採用したアーキテクチャが非常に特殊で難しく、その対応に苦労したことから元々あったオーバーエンジニアリングへの疑念が高まり、技術的なモチベーションは下がりつつあった。

プロダクトは色々あったが無事リリースされ、その後もしばらくは開発に参加していたが、例によってしばらく休暇が欲しくなったこともあり離任した。

B社にいる頃からVTuberにハマりだし、C社に入った頃には自分でもVTuberとして配信活動を始めた。最初は技術ネタを交えた雑談やゲーム実況という内容だったが、しばらくして配信のネタとして競技プログラミングを始めたらウケがよく、そのままハマってしまった。競技プログラミングは最初は何もかもが新鮮で楽しかったが、続けているとすぐに壁にぶち当たった。数学的な知識が全くないこともあり、いくらアルゴリズムの知識を勉強しても成績がほとんど伸びなくなってしまった。今まで、自分はプログラミングは出来る方だし勉強もやれば大抵は出来ると思っていたので、これは初めての挫折感だった。周りの理系高学歴な学生や社会人には全然敵わず、自分だってもしちゃんと勉強をしていたら良い大学に行けていたはずというプライドが破壊された。それでも競プロは止められず、徐々に他の実務的な技術に対する勉強や関心が弱くなっていった。

C社を離れたあと、休暇を取っている間にコロナが流行りだした。自分は感染しなかったが、社会的な混乱や不安に影響され精神が不安定になっていったし、不要不急の外出を控えろという言葉を真に受けた私はそれから何年もの間、外に出ることがほとんど出来なくなってしまった。また、コロナが流行り始めた年に30歳を迎え、中年になってしまった事に大きなショックと焦りがのしかかった。

フルリモートで次の仕事を始めたが、在宅で仕事をしようとすると全く集中出来ず、また上手くコミュニケーションを取ることも出来ずにストレスが溜まり長続きしなかった。数年間でいくつかの仕事を点々としたが、どうしてもフルリモートでは上手く働くことが出来なかった。仕事を短期間で辞める度に少しずつ自己肯定感が下がっていき、それを打破しようとAndroid以外のバックエンドやフロントエンドの仕事もしてみたが、リモートで身が入らないこともあり自分が思っていたよりもなかなかスキルも身につかず、覚えたこともすぐに忘れてしまい、むしろAndroid開発のキャリアに大きめのブランクを作ってしまう結果になった。

またいつものエージェントに案件を紹介してもらおうと思って連絡したが、面談の最後に「何か体調面などで気になることなどはありますか?」と聞かれたので、愚かな私はバカ正直に精神科に通っていることを話したところ、後日精神疾患者に紹介できる案件は一つもないという連絡がきた。

コロナ禍は落ち着いたが、その頃にはすっかり精神状態が疲弊し自己肯定感も失われていた。精神科では薬の量がほぼ限界まで増えていたが、その効果を実感することは出来なかった。自粛での生活習慣の悪化のせいか加齢のせいか薬の副作用かそれら全てが原因か分からないが、20代の間は緩やかに増加傾向だったがそれでも痩せ型の範囲内だった体重が2年で50kg以上増えピーク時には100kgを超えた。血液検査ではお酒をほとんど飲まないのに肝臓の数値が急激に悪化し、重度の脂肪肝と診断された。おそらく肝臓を悪くした影響で体臭が悪化し、特に下半身に汗をかくとキツいアンモニア臭がして一日同じズボンを穿いていられないほどだった。現在は10kg以上減量して臭いはほぼ改善されたが。また、顔の皮膚が剥けて火傷痕のように赤く湿疹が出るようになってしまった。脂漏性皮膚炎というらしい。人間は太るだけでここまで醜くなるのかと思った。

そしていよいよ現金資産が尽きようとしていたので、諦めて実家に帰ることになった。実家は立地が悪く、基本的に車がないとどこにも行けず、最寄りのコンビニは自転車で20分、最寄り駅までは自転車で50分という環境だし、ウーバーイーツも届かない。居候という扱いで居心地も悪くモラハラを受けひどい閉塞感と孤独を感じるが、お金があまり減らないというのが唯一のメリットだった。

引っ越しにあたり精神科を地元の病院に転院したのだが、その際に元の主治医からは「どうせ精神科の予約なんてなかなか取れないから予約してからじゃないと紹介状を書きたくない」と言われ、地元の病院には「紹介状がないと予約は出来ない」と言われ非常に困った。何度も頼んで結局渋々という感じで紹介状を書いて貰えたが。新しい病院では薬を減らして一種類にまとめましょうと言われ、少しずつ薬を減らしたり増やしたりしたが、その度に精神や体調が著しく不安定になり寝込んだり発狂したりした。今はようやく新しく処方された薬のみになったが、その薬を飲み始めてから過眠の症状が現れ、夜に8時間以上寝ても朝から夕方まで眠ってしまうようになった。このままでは社会復帰が出来ないので無理やり日中眠らないようにしたら、夜はちゃんと寝ているのに2徹くらいしているような体調になった。主治医に相談しても薬は変えたくないようだし原因に心当たりがないらしくあまり取り合ってくれない。また、発達障害のテストをしたいと依頼したが、予約が混み合っているらしく半年以上待たされている。

そして今度は手が痺れるようになった。小指とその周辺が常に痺れて動かない。肘部管症候群という病気らしい。キーボードを打つのにもかなり支障があるし、箸を持っても手に力が入らない。病院で経過観察と言われたが、今も改善していない。

と、ここまでが私の人生だ。今年で34歳になった。もちろん全ての出来事を漏れなく書いているわけではないが、どちらかというと恵まれていた方だとは思う。そもそもWeb系のITエンジニアという職種は基本的にはかなりの特権階級である。他の専門職やエッセンシャルワーカーなどと比べて恵まれすぎていて不公平だとすら感じる。しかしそれでも私はやっていけなかったし、他の仕事に耐えられるとは思えない。何かしら仕事を得ること自体は出来ても、続けられなければ意味がない。

恵まれた環境をいつも自分の心の弱さのせいで台無しにし何度ももう駄目だと思っては運良く挽回して生きてこれた。いや、このどうしようもないメンタルに生まれた事自体運が悪いという考え方も出来る。メンタルのせいで色々な事から逃げ出したせいでたくさんの人に迷惑をかけてしまったが、悪意を持って人を傷つけたり追い詰めたりはしてこなかったし、成人してからは他人に依存したり距離感をバグらせたりもしていないと思いたい。

だが正直、未来に希望が見いだせないし、疲れてしまった。もうこれから結婚することも子供を作ることも難しいだろうし、もし出来たとしても自分のような人間がパートナーや子供を幸せに出来る気がしない。特にはてなブックマークを見ていると精神疾患者や欠点のある人間は結婚や子作りをして他人に迷惑をかけるな一人で死ねと思っている人間が多数であることが分かる。

これ以上改善の見込みがない精神疾患を抱えながら苦しい死にたいとSNSで愚痴を言いつつダラダラと生き続けることで多くの人から嫌われ、失望され、迷惑をかけながら生きていたくない。まだ若くて広い世界を知らないのであれば死ぬのはもったいないとも思うが、これだけ挫折と再起を繰り返した上でもう限界なのだから仕方ないとも言えるだろう。

プログラマの仕事に対する自信や情熱はかなり失われてしまったし、もう意識高く働ける自信がない。近年は新しい技術、アーキテクチャフレームワークなどを勉強しても面倒なだけで価値や意義が理解出来ないことが多くなった。初期のAndroid開発が特別単純だっただけで、根本的にWebエンジニアをやれるほど頭がよくないのかもしれない。そもそも私のキャリアなど所詮はモバイルアプリ開発黎明期のバブルに上手く乗っかっただけにすぎない。それなのにプログラマという仕事への未練を完全に捨てきることも出来ない。少し前まで、なんとかスキルを活かせて自分に合った良い会社に就職してそれなりの年収を貰って真っ当な人間になって結婚して...なんて考えていた。

競技プログラミングも5年くらい続けてたくさん色々な勉強をしたが、最大でギリギリrate800届いたくらいで、高知能者のスタートラインにすら立つことは出来なかった。地頭の良いプログラミング初学者に一瞬で抜かれてしまう。

趣味で20年くらいイラストを描いていて、ちゃんと上手くなりたいと一念発起して技法書などを読み真面目に練習し始めてからも10年近く経つが、悲しいくらい上達していないことに気がついてしまった。1年前のイラストよりも5年前のイラストの方が上手く見えるくらいだし、未だに顔の基本的なバランスすらよく崩れていて不気味な顔になってしまっている。おそらく空間把握能力か何かが著しく低いのだろう。自分の知能ではクリスタの複雑な加工テクニック合戦にもついていけないし、創造力やセンスもない。思えば幼少期から本当に絵が下手で手先も不器用だった。知り合いに褒められたという経験がまったくない。もし少しでも絵の才能があったなら細々と絵を描いて暮らすという選択もあったかもしれない。可愛くて尊いイラストを生み出すだけの存在になりたかった。

それにこれは負け惜しみかもしれないが、どうせプログラミングもイラストもその他の文化的な活動や仕事もAIに敵わなくなり今のような価値は生まなくなるだろう。私は生成AIによる創作物が感情として嫌いでその発達による人類の未来に悲観的だが、かといってそれを止められるとも思っていない。あくまで自分が世界に適応出来ないというだけだ。

ネットをみていると世の中は不寛容、対立、差別、マウント、冷笑などで溢れているし、経済活動はいかに庶民を煽って搾取し金を搾り取るかに最適化されている。悪いことをしても決して悪びれず謝らず堂々としているメンタルがあるものが勝ち組だ。

あらゆる話題や情報が不快に感じる。ネガティブな情報はもちろん、仕事論などの意識の高い意見を見ても、自分が責められているように感じる。特にはてなブックマークは見ているとどんどん気分が悪くなってくるが、それでもある程度多様な意見が見られるだけマシな方だと思っているし、情報中毒なのでどうしても見るのがやめられない。

社会が不適切とみなしたコンテンツの規制はますます厳しくなり、3次元は当然として2次元であっても許されなくなってきている。このような傾向はおそらく私の寿命が尽きるまで変わることはないだろう。

ネット上のあらゆる自分の情報を削除し全く別の人格として静かになんとか生きていく道も考えたが、今のネットは狭く、全く別の世界で何も見たくないものを目に入れずに生きていくというのも難しいだろうし、ネットの世界にどっぷり依存した自分が今更ネット自体を絶ったらそれこそ何も楽しみがない苦しいだけの人生になってしまうだろう。暗号資産やNISAなどを全て崩して900万くらい現金資産が出来たので、何か金を使って楽しいことをしたり現実逃避しようかとも思ったが、特に金を使ってやれるしたいことも思いつかなかった。

自分はなんて自意識過剰で幼稚で自己顕示欲が強く無駄にプライドが高くわがままで迷惑で哀れな人間なんだろう。身の程をわきまえて慎ましく辛抱強く静かに生きていくべきなのにそれが出来ずに喚き散らして死んで笑われるのだ。

実際この文章を読んでどれだけの人が「死んでくれてよかった」と思うだろうか。まあそんなことはどうでもいい。

とにかく、私は死にます。今までありがとうございました。成功したかどうかはもしかしたら親切な誰かがツイートくらいしてくれるかもしれない。